お骨を小さくした粒を、砂時計を模したガラスに密閉しました。
この遺骨の砂時計、、、1分2分という正確な時を刻むわけではありません。
一瞬かもしれない、、永遠かもしれない、、、時の流れを表現しています。
命の時間は、、いつ終わるか決まっていません。ただ必ずあるということです。
私たちは時間の流れの中に存在しています。私たちと同じ時間の流れを奏でてもらいたい。そして同じ流れに存在することを確認したい共有したい。もう一度、大切な人の時間の流れ動かしたい。命という時は終わっても、お骨は残る、、大切な人の存在はあり続ける、、そしてその流れで時を再び刻む、、、私たちとともに、、
60歳代の父を亡くされた家族が訪れました。
制作依頼者は娘さんでしたが、、孫、ご本人、母、そして、、亡き父の母
4世代で訪れられペンダントの制作依頼を受けました、、
その時に感じたことを作品にしました。
連合いを亡くされてこられる方、お子様を見送った方、親を看取った方、など世代はいろいろです。
やはり一番つらいのはお子様を先に旅立たせる場面です。いつも命は理不尽だなと心と体を締め付けられ苦しんでいました。
そのように命のはかなさを想っているときに、このご家族と出会いました。
孫や娘に取っては、、父であり祖父である、、90歳代の母においては子供である、、、
見送る側の立場によって想いは変わってくる、、
ただあるのは、、それぞれにあたられた時間があるってことを、、、感じた。
そして、悲しみに苦しむのではなく、、、
その人の時の流れを尊重し憶おうと、、、、、